昭和四十九年四月三日 朝の御理解
X御理解第八十四節 「おごりがましいことをすな。ものは、細うても長う続かねば繁盛でないぞ。細い道でも、しだいに踏み広げて通るのは繁盛じゃ。道に草を生やすようなことをすな」
おごりがましいことをするなと。次第に道を広げて通る道でなからなければ繁盛ではないと。せっかく踏み広げてきた道に草を生やすようなことをしてはならない。それが私はおごりがましいことだと思うですね。おごりがましいこと、言うなら一生懸命にお参りをさせて頂いて、修行もさせて頂いた。段々例えば商売なら商売も繁盛のおかげを頂く土台も出来てきた。言うなら繁盛の道を踏み広げたのである。ところが、もう信心も判った。大体信心のおかげを頂くこつあいとでも言うか、心から神様は外してはいない。けれどもその、おかげで繁盛しておりますから、やれやれと、そこに信心を疎かにする。せっかく踏み広げた道に草が一杯、私、生えると思うですね。踏み広げて行くのも繁盛だけれども、繁盛のおかげまでこぎつけておいて、ある意味において、言わば、その道に草を生やすようなことこそが、私はおごりがましいことをすなということだと思うですね。
すぐ、人間の、これが誰でも持っておる、いわゆる通融性(つうゆうせい)とでも申しましょうか。いろいろと不如意な時には一生懸命にお参りもさせてもらうし、忠実に、実意丁寧に神信心を続けておる。おかげで細々ながら段々道を踏み広げることが出来るようになって、おかげを頂いて夫婦仲も睦まじゅう、親子円満におかげを頂いていきよる。ところが、段々おかげを頂いて、いわゆる、商売の方の繁盛、と例えば商売に限らんですけれども、というようなところからです。夫婦仲が悪うなる。親子の中に何か断絶なものを感ずる。私はそれこそが、せっかく踏み広げた道に草を生やしておるからじゃなかろうかと思うですね。そこからです。本当に、例えば自分一人の信心が家族にも伝わり、一家勢を揃えて、挙げての信心がいよいよなされている。そこから繁盛に繁盛のおかげが約束される。
「おごりがましいことをすな」だからある程度のところのおかげを頂いて、いうなら教会にも時々お礼参りでもするという程度。もうすでに踏み広げた道に、これなどは絶対草が生えるでしょうね。また狭い道になってくるとです。人間の、いわば弱さとでも申しますか、お金にも不自由せんようになった。あれも段々おかげを頂いたと云うようなことになると、手を出してはならぬところに手を出したりして。いわゆる夫婦仲が悪うなったり、親子が断絶といったような雰囲気が、私はそういう信心に堕してはならないと思うですね。
まあお互い合楽の方達の場合なんかは、そこまでのおかげを頂いておる人がまあないというてもよいくらいですから。まだおかげを頂いておる過程ですから、なかなか、その、油断はで出来ません。踏み広げる、いや、その、慢心も出されませんし、高々と鼻を高々にすることもできる程しのおかげを頂いとる人は、私はまだないと思う。だから、けれども、こうやって皆さんが熱心にお参りを、まあ信心の稽古をなさっておられるから、行く行くは踏み広げて、成程金光様の信心すりゃああいうおかげが受けられるという、人間の上にも、身代の上にも、健康状態の上にも、全ての人間の幸福の条件が足ろうてくる程しのおかげを頂いてもらわなければならんと思う。
昨日は高橋さんところの謝恩祭でございました。もう本当に、何時もながら感心しますけれども、高橋さんの信心性格そのままの御大祭でした。本当にキチッとしたことでした。もう本当に、参りましてからすぐ、私が色紙に書いて差し上げておりますのが、額に、綺麗な額に入れてあしましたが、「天に任せよ 地に縋れよ」という御神訓を見せて頂いた途端にあちらへ着いて、途端に感動した。本当に、思わず「神様 おめでとうございます」と、こう、御祝いの言葉を申し上げた。「高橋の家の神様、段々繁盛の一途を辿っておられる」ほんとに高橋さんこそある意味において 天に任して地に縋っておられる。任せるだけなら誰でも出来るけれども、出来るちゅうがこれも難しいことですけれども、もうそれこそ一切が、もう親先生任せという生き方、皆様ご存知の通りです。なら、それだけじゃない。一心に縋っておられる姿が、もう朝の三時半には、福岡からですよ、ここまでちゃんと出て来ておられる。そして教会の御用といえば高橋さんがおられんことはないというようにおかげを頂いて、お寿司屋さんで、従業員が百何十人も居るというようなお寿司屋さんは、ひょとすると、この調子で行くなら日本一の寿司屋さんになれるぞ。というような感じさえする程しに、段々繁盛の一途を辿っておられる。なるほど一心に縋って、一心を、そこに真を現しての御用。そしていわゆる、いよいよの時にはお任せするという、神様任せの生き方。本当に「神様、今日は、おめでとうございます」と言うて、おめでとうございますを申し上げる。
ところが、これは私がそう感じたのであって、なら神様の目から見ると、まだまだこげなことじゃ出来きんと思うておられる。まだ言うならば、草ども生やしなさることがあってよかろうはずがない。まあ、あちらは家族ぐるみの信心をなさいます。高橋さんのように熱心ではないけれども、最近はお父さんもお参りになりますし、お母さんもお参りになりますし、家内も子供達もお参りをするし、何かと言やあ従業員の方達もお導きをして参られるというようなおかげを頂いておられます。ですから、なら私はもうこれより以上の信心はなかろうように思うけれども、神様の目から御覧になるとそうじゃあない。もうそれこそ何から何までキチッとしたことでしたけれども、最後に皆さんが玉串をあげられる玉串が大分足らなかった。それはまあ、それよりもお参りが多かったから足らなかったといえば有り難いことですけれども、まあそういうことは別として、私は皆さんに「その玉串が足らなかったということは、これは信心が足ろうていないからだ」と私は申しました。
「そげなはずがあって良かろうはずがない。言うなら、高橋さん程しの信心は出来ないにしましてもです。なら家内やら親やら、これからが踏み広げて行かにゃならんということだということです。信心の、言うなら高橋の家の分家いうものがです。家族を挙げてここのところになって行くためには、言うなら高橋さん、あなた自身が、なるほど定利が変わった。定利の信心が素晴らしいと親たちが感心してくれるような高橋さんにならなければ駄目だと。ついてこなければおられないというものに、ただ悪か神様じゃない。成程おかげ頂きよるから、只反対はせん、時には自分達も参るといった程度のことでは、まだまだだ」と言うてお話をしたことでした。だから本当に信心ちゃ本当に限りがないなと思います。
先日小さいパンフレットを送ってきました。まだ私は半ばまで読んだのですけど。お伊勢さんのあるところ、伊勢ですね。伊勢の教会のご信者さんで、大変有名なご信者さんがあるそうです。火事に遭われたり、それから一遍破産をしたり、様々な難儀・苦労されて今日のおかげを頂いて、伊勢の駅の前で、結婚の時のいろんな道具のお茶とか、それに衣装なんかの一切を大変手広うに卸小売りをなさっておられて、ご自分はもう近所の教会に、ずっといわれてはお話に回わられる。教会の御用に打ち込んでおられて、そして私が読ませて頂いたところまでは、ちょうど息子達夫婦にいよいよ店を譲ってしもうて、そしていよいよ御用に専念させてもらいたいというようなことを書いてある。そして、年に一回の謝恩祭のところを読ませて頂いて驚いた。二階が十畳と八畳二間ですから、二十六畳あるそうです。それが宅祭がね、いつも三回に分けてされる、三日間続けてされるそうです。謝恩祭ですよ、信者の家の、二階が狭いからと言うから、本当に狭いかと思うたら、十畳が一間と八畳二間を取り払うての御大祭がね、いわゆるその方の宅の御大祭。言うなら宅祭り、しかも三日間続けてされる。親先生・若先生に来て頂いてこれは毎年それをさせてもらう。
本当にその、まあ、限りがないですね頂くおかげというものは。成程、昨日の高橋さんところのお祭を拝ませてもらい、奉仕させてもろうてです。本当に素晴らしか、まあ本当に有り難い、で、もしここで天狗にでもなったり、やれやれと言いよったら、そこから道が、そこからせっかく踏み広げた道に草を生やすようなことになる。まあだいよいよ踏み広げて行かなければならない。言うなら、家族中の信心に、言わば燃えて行きなさらなければならない。
先日、ある人が、大変以前は熱心にお参りしておかげを頂いて繁盛しておる。最近はまあ時々お参りするくらい。月例祭なんかには必ず参って来るけれども、その程度の人が先日お話をしておるのを横から聞かせて頂いて、私は本当に思うた。まあ今日の御理解でいうなら、ああだいぶ道に草が生えてきたなという事でございます。本当におかげ頂いておる。ところが、私は夫婦で喧嘩したことはないけれども、こと神様事という時だけは喧嘩をすると言うておりました。恐らく私のこの喧嘩は、神様が喜んで下さるじゃろうと思うと言うて、得々と話しておった。皆さんどう思うですか、なるほど信心させて頂いとって家内に信心がない。そして神様のことをとやかく言う。そうするとそこに喧嘩が始まる。他のことでは喧嘩せんけれども、神様のことだけでは喧嘩する。けれどもそれは、神様が喜んで下さると思うと言うて、成程、自分がそのくらい神様のことを一心に思うとるということでしょうけれども、それでは私、神様は喜びなさらんと思うですね。
自分の信心が至らぬから、自分の半身である家内に神様の悪口を言わせなきゃならんのですから。こげな神様に対して相済まんことがあろうか。十年も二十年も信心させて頂いておって、まあだ家内一人にすら信心を導ききっとらん、子供達にですらお参りさせきらん、といったようなことで神様が喜びなさろうか。あのまま信心を続けておったらそんなことはなかったろうけれども、そういうことになってきた時です。せっかくそこまで踏み広げた道に、言うならば、草を生やしておる姿が、信心の外のことでは喧嘩せんけれども信心のことでは喧嘩をすると。そげんしなさらんでんよかじゃないの。そげん御供しなさらんでんと。例えばそういう時に家内と喧嘩をするというのです。成程ある意味では神様が喜んで下さるかもしれんけども、大きい意味においてです。「そんなことでお前は何年信心して家内一人ば導ききらんか」と、神様は言いなさるじゃないかと思うです。すでに、その広げた道に草を生やしとるそれはもう姿です。
私昨日の高橋さん所のお祭頂いてです。本当に合楽第一の宅祭とそんな感じでした。だから、これでよいということはないということ。まあだまあだ、願いなさらなならんことは沢山ある。それこそ道に草でも生やすようなことがあってはならないということを改めて思わせて頂いて、伊勢の教会の御信者さんという、その人の信心ぶりというものをいろいろ書いてございましたが、やっぱりおかげを受ける人は違う。しかも、そういう広い所に沢山の御信者さんが集まって来なさる。ということは、如何にその人が魅力を持っておられるかということが言えます。お互い信心させて頂いてね、その信心の魅力というものがなからないかんです。出来てこなきゃ。その人のそばに行ったら離れられんようなものを持たなきゃいけんです。あなた方に来ると信心の話しが聞かれるけんと言うて、信心の仲間んでん言うくらいな信心をさせてもらわねばいかんです。
信心の魅力は皆さん、どういう風になって行きよるでしょうか。「もうあそこに行くと信心の話しばかりじゃけん行こうごとなか」といったような信心では値打ちはないです。そういう例えば、中心の信心にです。皆が、とてもあの人の真似をせんならん。あの人の話しを一口でん頂きたい、というような人達が、私は集まって来るから、そういう二十何畳というような広前でです。しかも信者の家でです。親先生と若先生に三日間も連続で来て頂いて、三日間も御祭をさせてもらうというようなおかげ、そして、御用に打ち込んでおられるけれども、商売が只々繁盛の一途を辿っておる。何かよい手本を聞かせて頂いたような気がいたします。
信心に、言うならば、それぞれ一つ本気で、魅力を創らなければいけません。神様にいよいよ、神様の力に引かれる。神様の魅力に引かれる、私共に先ずならなければならん。そしておかげを落とすようなことに魅せられてはならん。もうこれしこおかげ頂いたけん、これくらいのことだんよかろう。あれは何時でしたでしょうか、もう二年前でしたでしょうか。久留米の佐田さんが、もうこれだけおかげを受けられたから、もう時々はゴルフの一つもしてよかろうというような気分で、ゴルフの道具を買いたいというお届けがあった。言うならば、神様にも魅力を感じる信心が出来よるばってん、こんどは外のおかげを落とす方の方に魅力を感じてきた。もうそげなことばしよると、次々と、又あれにも魅力を感じ、感じちゃならんところに魅力を感じるようになる。「だから佐田さん、もうしばらくあんたが腹がもうちっとこげん大きなってから、ゴルフの服が似合うようになってからでようなかの」と私が申しましたことでした。これはいわゆる人間が少し出来てくると、もう手を出してはならないところに手を出しよるとです。決して金光様の信心すりゃゴルフしちゃならんとかいうことではないですよ。本当に、言わばこれからいよいよ繁盛していかなければならない過程にある私共ですから、そこんところを本気で慎まして頂かなきゃならんということなんです。そういうところからです。それこそ「蟻の一穴から堤防の堤が切れる」というようにです。おかげを頂かしてもらわなければいけん。
私は昨日、お母さんのお友達でしょうね、十人くらい参っておられたでしょう、立派な方達ばかりでした。そういう方達もおられましたから、私自身がおかげ頂いておる事実を聞いて頂いた。第一私の両親が、九十いくつと、もう九十にすぐなります母と父が元気でおかげ頂いとります。しかも健康でおかげ頂いとる。両親の部屋に行きますと、はあ本当にこういう部屋が極楽部屋というとじゃろ、というような感じで、それこそ、百味の御食(ひゃくみのおんじき)というてよいかも知れん。夏は涼しく冬は暖か、そして皆さんがおじいちゃんに、おばあちゃんにと言うて、いろんな物を持って行って下さる。私はせんけれども、御信者さん方がみんなそうして下さる。修行生の方達が移り変わり行って、さあ足をさすったり肩を揉んだり、お掃除をしてあげたりして、部屋の中も修行生の方達が何時もきれいして下さる。もう言うとこない程しのおかげを頂いておる。そういう両親を頂いて、私共夫婦もまだかつて夫婦喧嘩して家内をまだ、何十年になりますけど一遍でも手を当てたことのないという程しのおかげを受けておる。子供達も別に器量が良いの、または頭がいいということはないけれども、七人の子供に恵まれておる。しかも息子四人の上のことを思うと、それこそ士農工商と、いわゆる足ろうたおかげを頂いておる。おかげで金に不自由することもなからなければ、食べ物にどうということもない。いわゆる有り難い勿体ないの信心を、いよいよこれから広げて行かなければならないというのが、そこに人が助かることさえ出来ればという心の状態が開けてきて、最近では世界に和賀心時代を創ろうというような大きな願いを持って、いよいよこの道を踏み広げて行かねばならないという念願の話を聞いてもらった。
これは手本なんです。高橋さんにしたところで、言うなら佐田さんにしたところで、まあ合楽はでは手本です。けれども、まだまだだと私は思うんです。なら、私の信心でもこれで良いということはない。まあだまあだです。それは私がこれほど神様に魅せられておる。これほど神様からも、まあそうでもないかも知らんけども好かれとると自分で自負して、そういう神様と私共の関係というものがいよいよ密になって行くというおかげを頂いたらです。私は草を生やすこともなかろう。おごりがましいことは尚更出来ないと思うのです。せっかくここまで広げた道に、それを私は、その道に私は草を生やすようなことであってはならん。
「おごりがましい」と最初に教えておられますが、おごりがましいということは、そういうことではなかろうか。せっかくここまで頂いておるおかげにです。傷をつける。せっかくここまで頂いておる踏み広げて来た道に草を生やすようなことこそが、私はおごりがましいことだと言う風に今日は聞いて頂きましたですね。
どうぞ。